2010年11月02日

富嶽百景がいいのです

太宰 治の富嶽百景

明るい太宰治
富嶽百景が好きだ。
ひとは、精神を安定させる事ができる。
でも、がんばろうなんて思う必要はない。

穏やかであろう

作家の意図?
学校の国語の試験で、作家の意図は?という問題がよくありました。
採点結果を見ると、どうしても納得できないことがよくありました。
本当に、作家は、それを意図したのでしょうか?
作家の意図は単純ではないのではないでしょうか?
走れメロスは、分かりやすいかもしれないし、太宰らしくないかもしれない。
作品ごとに別々に読むか、作家ごとまとめて読むかは、その人の好みです。
ただ、複数作品まとめて搭載している本を買うかどうかは、迷うかもしれません。
富嶽百景だけでも価値はあるし、走れメロスだけでも価値はあると思います。
両方好きになる必要はないと思いますがいかがでしょうか。

富嶽百景がいいのです
 太宰と言えばアンニュイ  現国の授業中、あーんなに暇?でなかったら別のページにあった「富嶽百景」(抄)読まなかったと思う 先入観が大きかった 読み出すと、、、止まらない! 授業そっちのけ この人ってこんな事も書くんだ−!何?井伏鱒二が放屁?学校帰りに本屋さんに行ってこの話と井伏鱒二の文庫を買ったのは言うまでもありません 太宰苦手!という人にちょっと読んでみたらーって話だとおもいます この時から師の井伏鱒二のファンになりました
富嶽百景・走れメロス 他八篇

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タグ:太宰治
posted by なつみ at 13:34| 読書 | 更新情報をチェックする

2010年11月01日

創作者の側からの挑発

多和田 葉子のエクソフォニー

言語宇宙のかなたへ
 多くの読者は、この本を読んで多和田葉子の豊かな言語感覚に嫉妬せざるをえないだろう。彼女は常人では届かぬ言語宇宙のかなたに行ってしまっている。そして、読者に言語の持つ新たな可能性を手際よくみせてくれる。ほとんどの言語学者は言語を死物のように扱いただ分析するだけなのだが、彼らの書く愚にもつかぬ本をいくら集めてもこの『エクソフォニ−』には及ばない。多和田葉子という希有な水先案内人とともに言語宇宙を旅しようではないか。

生活の中で外国語を使っている読者には頷けることが多い一冊
 第一部は書き下ろしで、幼少時代に使って身につけた母語とそれ以外の外国語で思索・創作するということについて思いをめぐらせた小論を20編あつめています。 第二部はNHK「テレビ ドイツ語会話」のテキストの連作エッセイを加筆修正したもので、ドイツ語の興味深い単語や表現について著者独自の視点から切り込んでいます。  第一部は、起承転結が明確ながっちりした小論文というよりは、自由気ままに思いつくまま筆を書きすすめたという緩やかさを伴った文が続きます。話題も変幻自在といった感じに転じていくので、えてして「で、そもそも何を論じようとしているの?」という思いも抱かないではありませんが、「自分の言葉」と「他人の言葉」の両方の間を往来しながら生きている著者ならではの「自在さ」があらわれているという風にも取れなくもないなと感じた次第です。  第二部はドイツ語を外から眺めて初めて見えてくる、ドイツ人自身も気づかない「隠れた個性」に目を向けさせてくれるなかなか面白い文章が並んでいます。私はドイツ語と出逢って四半世紀が経過していますが、それでもなるほどと思わせてくれる話が載っていて楽しめました。  しかしもともとが「会話番組のテキストの購入者」という限られた読者を対象にしている文章なので、おそらくドイツ語に多少なりとも知識がないと楽しむことは出来ないと思います。

創作者の側からの挑発
このエッセイ集は、一言でいうと、クレオール文学、越境者の文学、移民文学、外国人文学など、創作者本人ではない他人からの定義を冠されてきた多和田をはじめとする母語ではない言語で創作を行う作家を、新しい視点、つまり、「母語の外に出て書く=エクソフォニー」という創作する行為から見て定義しよう(あるいは定義から解放されよう)というものである。彼らが母語ではない言語の選択にいたる原因だけではなく、結果として広がる豊かな現実、あるいは危険と隣り合わせである緊張感にあふれた創作行為そのものに目を向けようとしている点で、こういった主題を扱っている他の本に対する一種の挑発とも思える。かかれている内容としては、彼女が旅先で経験したことを都市の名前を冠した章ごとに語!るというものであるが、端々に垣間見えるのは、ただエクソフォニーを礼賛するだけではなく、二言語で書きたいことが書けるという一種の特権性に対する謙虚さや、ドイツの作家がなぜドイツ語創作にこだわるのか、という事情への考察、そして、日本が他国に押し付けたエクソフォニーに対する目配りもあり、創作者ならではの視点と反省とである。「旅することと住むこととはわたしの中ではもはや相対的なもの」と語る作者の、危うくも快感をもたらす綱渡りのような、身を張った創作行為の舞台裏を見ることが出来る。
エクソフォニー-母語の外へ出る旅-

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posted by なつみ at 20:03| 読書 | 更新情報をチェックする

倫理学をとてもわかりやすく解説している

著者は、大学や大学院でビジネス倫理学の教鞭を執るヒゲの太っちょ教授。
ビジネス倫理学の第一人者である。講義では非常に愉快な語り口で学生と共に考えながら講義を進めるスタイル。
日本においてのビジネス倫理学の歴史はそう長くはないが、著者がその領域と論議を深めたと言っても良い。
本書では、カントやローズ、ミルなどの哲学思想を非常にわかりやすく解説している。
また、ビジネス倫理に関するケーススタディも取り上げており、内容は非常に濃い。
さらに、昨今の企業不祥事について、倫理学の観点から言及している点も学術的に新しい切り口である。
大学院ビジネススクールでもビジネス倫理学の教科書として採用されている。

リスク管理について考えさせられる1冊
「倫理学」と言う言葉から、学問的かつ哲学的なイメージを持っていた。
しかしながら、本書を読んで「倫理とは非常に身近で重要なことなのだな」という認識を持つようになった。

本書は、大きく分けて「理論」と「実践」との2つの内容に分かれている。
前半の「理論」部分では、倫理学の分類や考え方について述べられている。
比較的わかりやすく記述され、初めて「倫理学」にふれる人にも抵抗なく読むことができるだろう。
後半部分は以下のようなケースに基づく討論会を収録した形となっている。

「慰安旅行で男性社員が風呂場で女子社員の入浴をのぞきました。さ、どうしますか?」

「海外に工場を建設しました。しかし少年・少女が学校に行かずに労働に従事しています。法律上は問題ありません。このまま従事させますか?」

倫理とはとても難しい問題であり、我々の身近に常に存在するものだということを痛感した。


薄いが内容は濃い
カント、ローズ、ミルの理論から紹介されておりこの分野がいかに未開拓の分野かわかる。著者アメリカから帰国したとき胡散臭い学問研究したねといわれたらしい。後ろの参考文献、WEB SITE情報素晴らしい。 
現代社会の倫理を考える〈3〉ビジネスの倫理学)
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posted by なつみ at 18:57| 読書 | 更新情報をチェックする

チクリと刺し、クスリと笑わせる

田辺 聖子の苦味を少々 399のアフォリズム

まぶしくて正視できない
谷沢永一氏の紹介から手にした本。
著者が「女のおっさん・・・」と表現された書名もあるようですが、
イや、なかなか“淑女”であらせられると、感じ入ります。
人、女、おんなというこのようにゆたかで、
男、我と異なるものか、キモに命じた次第です。
少し年月を経て、再読します。

チクリと刺し、クスリと笑わせる秀逸な箴言集
 谷沢永一氏が強く推薦していた箴言集です(アフォリズムとは簡潔鋭利な評言を指します)。短い言葉の中にチクリと心を刺しながら、クスリと笑いを誘う箴言が詰まった秀逸な一冊です。目次から読み取れるテーマは人生、男女、恋愛、家庭、ハイ・ミス、中年、世相と文化といった内容です。この本は書評を読むより、その箴言をいくつか読んでみる方が適切でしょう。書評よりも箴言の方が簡潔なのですから。 (以下、本書より抜粋) 9・・・ゆとりは、金や物品のあるなし、経済力のいかんにかかわらないものだが、しかしなぜか、世間の人間は、物質的にゆたかだと、ゆとりを持つようである。 73・・・「ちゃんとしすぎて具合の悪いときもある。自分だけがちゃんとしている、と思う奴は、人にきびしいからね。」 136・・・男の仕事というのは、結局、あとで金を支払う、人生すべてこのことに尽きているように思われるのだ。 275・・・「人生は非常識の連続や」 298・・・人生は、もうゆきどまり、と思っていても、必ずどこか、抜け道があり、神サンはちゃんと、「この道抜けられます」の札を吊るしておいてくれてるのである。逆上しているときは、それが目に入らないけれども。 299・・・しかし、いかんせん、努力する能力も生まれつきのものなのだ。生まれつき努力する能力に恵まれてる人は、周囲がよせといっても、努力せずにはいられないものなのだ。努力しない人は、生まれつき、努力する才能に恵まれていないのだから、どんなに周囲で努力するようお膳立てをしてやっても、しないのである。自分が努力したから、人も努力するべきだ、と強いるのは、このへんのところがよくのみこめてないからである。 ちなみに最後の399番目は傑作でした。だからといって本の後ろから読み始めないで下さい。前から順番に読み進めていってはじめて399番目が活きて来るのですから。
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タグ:田辺 聖子
posted by なつみ at 16:29| 読書 | 更新情報をチェックする

腐敗打倒にかける情熱

戦前の特務機関に関する調査はすごい
この本の圧巻は「児玉誉士夫とは何か」「CIAと児玉誉士夫」であろう。特に戦前の特務機関の在り様から戦後のGHQとの関わり、そしてCIAとの関係までを明らかにした取材の徹底振りには感心する。特務機関に関わった膨大な人員と予算、ニセ札と阿片を取り扱っての莫大な利益を考えれば、日華事変で陸軍が中国から簡単には手が引けなかった事情も納得がいく。

田中逮捕の後も著者はこの問題を追い続け、「ロッキード裁判傍聴記」「論駁」「田中角栄新金脈研究」「巨悪と言論」へとつながっていく。

日本の闇に迫った歴史的作品
著者が文芸春秋に「田中角栄研究」を発表したことが契機となり、田中角栄は退陣に追い込まれる。田中側は権力を利用し、総理府公報の月刊誌、週刊誌(特に新聞社系)への宣伝費を増やし、著者を追い詰めてゆく。そして「ロッキード事件」が発覚。著者は発表の場を次々と変えながら、金脈とロッキード事件の追求論文を様々なメディアを使って発表する。著者は、週刊ポストや現代のような独立系の週刊誌が誌面を与えてくれたと感謝している。ロッキード事件は、日米おろか世界数十カ国に跨った汚職事件で、田中角栄ばかりかCIA、児玉機関などが登場して日本の深い闇が姿を現す。今に続く日本の政治の姿が国民の前にはじめてあばかれた。この作品は、色々な場所で発表した一連の論文を整理しなおしたものだが、権力に挑む立花隆の執念にただ敬服する。

腐敗打倒にかける情熱
 下巻には、ロッキード事件発覚から、田中が五億円収賄容疑で逮捕されるまでに書かれたレポートが掲載されている。

 逮捕により、田中は政治の表舞台から姿を消すことになる。だが田中は刑事被告人となった後も「闇将軍」として政界に君臨し、自らの意思を実現しようとした。表舞台には大平、鈴木、中曽根ら自分の言いなりになる傀儡を据え、自身は裏舞台からそれを操作する「権力の二重構造」をつくり出すことによって、である。

 1983年10月、田中に有罪判決が下されるに至っても、政治の「金権・腐敗」体質は一向に改善されず、「田中型政治」は、金丸、竹下といった田中の後継者たちによって脈々と受け継がれてゆく。

「田中角栄研究全記録」上下巻に収められるのは、田中退陣のきっかけとなった論文「田中角栄研究」以来2年間にわたって書きつがれたもので、その量は原稿用紙千枚にも及ぶ。

だがそれでは終わらなかった。立花氏の本当の闘いは、田中逮捕の瞬間から始まったのだ。
1993年12月に田中が病死するまで、氏は「田中なるものすべて」を批判し続け、なんと一万枚以上の原稿を20年にわたって書き続けることになるのである。

 政治のあるべき姿を求めつづける立花氏が、腐敗打倒への激しい情熱をたたきつけた一冊である。
 
 
田中角栄研究―全記録

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posted by なつみ at 15:02| 読書 | 更新情報をチェックする

2010年10月30日

含蓄をたたえた文章も印象に残ります

猫を書く
 夏目 漱石に内田 百間、梶井 基次郎、現代ならば町田 康や村上 春樹。
猫についての小説や文章を書いた作家は数多く、そしてそれらの作品は、
いずれもが例外なく優れた叙情性を持っている。まるで、猫について
表現することこそ、人間に言葉が与えられた理由ででもあるかのように。

 なぜ物書きは猫に惹かれるのだろうか。おそらくは猫という生き物が
あの丸くて柔らかい一つの体の中にあまりにも多くの要素を秘めているからであり、
それを気まぐれに見せてはまた隠し、また見せする様子が、作家たちの筆を
誘うからなのだろうと思う。可愛さ。美しさ。生物としての脆さと強さ。
ときに赤ん坊のように幼いかと思えば、仙人のごとく達観しているように
見えることもある。獣としての荒々しさや卑しさが、人間など足元にも
及ばないような高貴さとくるくる入れ替わる。猫の持つそうした
いくつもの側面を言葉でとらえようと、作家たちは猫と全霊で向き合い、
やがて筆を取る。結果として、猫を書いた作品に傑作が並ぶことになる。

 この『猫』にも、作家をはじめとする創作を生業にする人々が
それぞれのやり方で猫と付き合うことで生まれた珠玉の文章が連なっている。
微笑ましいもの、何か考えさせられるもの、いずれも適度に肩の力の抜けた、
洒脱な作品ばかりだ。確かに、猫と向き合うのに思想や信条はいらない。
猫の前では人は裸だ。それもまた、「猫もの」に傑作が多い理由かもしれない。

“猫”への親しみの情が湧いてきた好エッセイ集です。
 “猫”という個性的かつ魅力的な小動物に、次第に惹かれていく人たち。飼い猫や子猫の仕草や、彼らとの交流をひょいと書き留めてみた、そんなエッセイのいくつかに味のあるものがあり、なかなかに楽しめた一冊でした。

 1955年(昭和二十九年)に刊行された『猫』(中央公論社)を底本とし、クラフト・エヴィング商會の創作とデザインを加えて再編集した猫―クラフト・エヴィング商会プレゼンツを文庫化したもの。
 <ぶしよつたく坐つてゐるやうな感じであつた。>p.53、<机の下からそつと私の足にじやれるのを>p.137 といったふうに、原文のまま掲載されているのも雰囲気があって、好ましかったです。

 収録された文章、エッセイは、次のとおり。

 「はじめに」・・・・・・クラフト・エヴィング商會
 「お軽はらきり」・・・・・・有馬頼義(ありま よりちか。小説家)
 「みつちやん」・・・・・・猪熊弦一郎(いのくま げんいちろう。洋画家)
 「庭前」・・・・・・井伏鱒二(いぶせ ますじ。小説家)
 「「隅の隠居」の話」「猫騒動」・・・・・・大佛次郎(おさらぎ じろう。小説家、劇作家)
 「仔猫の太平洋横断」・・・・・・尾高京子(おだか きょうこ。翻訳家)
 「猫に仕えるの記」「猫族の紳士淑女」・・・・・・坂西志保(さかにし しほ。評論家)
 「小猫」・・・・・・瀧井孝作(たきい こうさく。小説家、俳人)
 「ねこ」「猫 マイペット」「客ぎらひ」・・・・・・谷崎潤一郎(たにざき じゅんいちろう。小説家)
 「木かげ」「猫と母性愛」・・・・・・壺井榮(つぼい さかえ。小説家)
 「猫」「子猫」・・・・・・寺田寅彦(てらだ とらひこ。物理学者、随筆家)
 「どら猫観察記」「猫の島」・・・・・・柳田國男(やなぎた くにお。詩人、民俗学者)
 「忘れもの、探しもの」・・・・・・クラフト・エヴィング商會

 なかでも、有馬頼義、坂西志保の文章に、格別の妙味を感じましたね。行間に見え隠れし、自然、にじみ出してくる書き手の“猫”への愛情。それが、とてもよかった。
 “猫”を見つめる寺田寅彦の観察力と、含蓄をたたえた文章も印象に残ります。

posted by なつみ at 23:33| 読書 | 更新情報をチェックする

2010年10月29日

読み手に対する要求が高い

純粋な小説
なんのあてもなくパリに放り出されたわたしは、行き当たりばったりに知りあった人の家で居候生活を始めた。 身分を証明するものを持たない、それも共産圏からの密入国者であるわたしに何ができるだろう。
ふらふらと吸い込まれるように映画館に入ったわたしは、ひとりの女優に惹かれて、彼女を見るために、彼女に話しかけるために、映画館に通い詰めるようになった。

社会主義しかしらないベトナム人の少女は、フランス語がわからないからパンフレットも読むことができない。 作品を何度も何度も繰りかえし観て、オリジナルな解釈をつけてゆきます。 
少女が惹きつけられた女優はカトリーヌ・ドヌーブ。

小説には少女が見ている作品のタイトルが書かれていません。
実は・・・わたしはカトリーヌ・ドヌーブの映画をたくさんは見ていないので、少女がどの作品を観ているのか、私たちが知っているストーリーとどれだけかけ離れた解釈なのか、いまひとつわからないまま読んでいましたが、なかなか興味深かった。
12年間に及ぶ、パリでの実生活も ものすごく怪しげで、目が離せない。
こんなに長くパリに住んでいたのに彼女はフランス語をマスターできなかったのです。

この本は、読んだことによって自分に何かが蓄積される、そういうことはまったくない小説でした。 ある意味では純粋な小説とも言えます。
読んでいる時間、小説に没頭してるときがすべて。
芸術性の高い作品だと思いました。

映像と意味
日本で海外の映画を見慣れていると字幕が当然になってしまいますが、映像のなかの文字に注意を集中させられるというのは、かなりもったいないことです。ということが、この小説でよくわかります。

ベトナムの女子高生がヨーロッパ(特にパリ)をさまよい、孤独のなかで成長していく話。ストーリーもおもしろいですが、フランス語がまったくわからない主人公の独特の映画解釈がたまりません。セリフの意味が分からないから、画面からかなり勝手に意味を作り上げていく。いくとおりも考えられる映画の意味の世界の豊かさが、孤独な現実と重なっていく手法が見事です。

言葉=たった一つの意味。映画=いくつもの意味。この小説を読むと、字幕をみるのはやめようと思えるはずです。

読み手に対する要求が高い小説です
 共産国ベトナムから東ベルリンへ一人の少女がやってくる。ドイツ全国青年大会でアメリカ帝国主義を糾弾する演説を求められてのことだ。だが彼女は大会直前、運命のいたずらから西ドイツのボーフムへ渡ってしまう。その後パリへ流れ着いた彼女は、あの女優の出演作を見ることができる映画館を唯一の慰めの場として、二十世紀末を生きていく。ベルリンの壁が崩れ、祖国ではドイモイが進んでいることも、どこか他人事のように感じながら…。 言葉が十分には理解できないまま国境を越え、アジアの少女はヨーロッパの中で孤独を抱えて長年月を過ごします。読者は少女とともに「帰属感の喪失」を味わいながら、この小説の中で絶望的な彷徨を繰り返すことになるはずです。私はそのもどかしげな寂寥感を主人公とともに堪能しました。 とはいうものの、この小説は読者を選びます。というのも、これは主人公が作中では「あなた」と呼ぶだけの女優の出演作13編を作者なりに一度解体した上、この少女の数奇な運命と映画の内容とを重ね合わせ、<二重らせん構造>に組み直したものなのです。 各映画の筋書きは断片的に語られるだけで、映画解説風の詳細な描写ではありません。映画を未見の読者にはそれぞれの粗筋を十分には理解できないかもしれません。 特に最終章は映画との連関が一切説明されません。「セルマはアメリカに亡命してそこで死刑の宣告を受ける前に、ベルリンで三年間、暮らしたことがあった」という書き出しに頷くことができるのは、ビヨークがセルマを演じた「Dancer In The Dark」を見たことがある読者だけです。 セルマは異郷に生きるための慰めをミュージカルに見出していました。セルマと少女は鏡の関係にあるのです。 こうしたことを読み解けない読者をこの小説は最初から受け入れてくれません。読者に対するハードルの高い作品だといえます。
旅をする裸の眼
カットソー
posted by なつみ at 19:55| 読書 | 更新情報をチェックする

非常に読み応えのある小説

大変おもしろく読ませていただきました
1巻?5巻を通して大変おもしろく読ませていただきました。
非常に読み応えのある小説だと思います。たぶん、今まで当たり前に思っていたことに疑問を投げかけてくれること請け合いです。陸奥に長い旅行に行ってみたくなりました。
ただ、私は文庫本で読んだのですが、5巻の巻末にある解説だけはいただけません。
最悪です。
ここだけは飛ばしたほうがいいと思います。せっかくの感動が、
台無しになること請け合いです。

おもしろかったです
 本書は1?3巻で前九年の役、4巻で後三年の役、5巻で源平の争乱と奥州藤原氏の興亡が描かれています。
 1?4巻までは、確かに面白いがどうも登場人物に入れ込めない、という感が個人的にはしていましたが、この5巻ではどっぷりとつかることができました。
 5巻の冒頭で、平泉の繁栄ぶりとその経緯を振り返るシーンがありますが、むしろこの場面こそが1巻の冒頭にあり、過去に思いを至す中で1巻の内容に入って行き…という構成にしたほうが、藤原経清などの登場人物に対する思い入れが「東北人以外の人々」にも深く浸透した上で話が進んだのでは?と九州人の私には感じられます。

奥州藤原氏滅亡へ
清衡は楽土を作り上げた。
その楽土を受け継いだ者たちが源頼朝により滅亡するまでの物語。

自分たちの立場を絶対的にするために招いた源義経。
その欲が奥州藤原氏滅亡に帰結する。
炎立つ 伍 光彩楽土
プラダ トート
タグ:高橋 克彦
posted by なつみ at 00:41| 日記 | 更新情報をチェックする

2010年10月28日

感想はなかなかまとまらない

昭和の政治家の一神話
架空の政治家の姿を借りて、実際の昭和の政治家の在り様をその一身にまとわされた
福澤一族の王たる榮という主人公。

その孤高の最終決断は、シェイクスピア劇の畳み掛けるラストの如く圧巻で、痛快。

作者は、男性だったら、斯様な人生の幕引きをしてみたかっただろうか。
きっと書き上げてさぞかし小気味良かったことだろうと、想像。

榮が唯一愛した晴子以外の女連の描かれ様には、女の嫌な面のオンパレードだったわけだが、
この榮の最終措置に、わたしも溜飲を下げた。

小説家の枠を越え「政治・宗教」と対峙した気概溢れる圧倒的な作品
上巻の第一章は、口頭での榮の政談、彰之の宗教談義だけで哲学書風に構成すると言う破天荒な出だし。第二章で、ようやく<王>と一族の考察に入り、題名に沿って来た。作者に依れば<王>を創り出す要諦は「能動」だと言う。ならば崩壊の予兆は「閉塞」か ?

下巻も榮と彰之の宗教談義から始まる。政治家とは思えぬ高邁な精神と仏教知識を持つ榮。二人の会話は相変わらず抽象的な哲学論だが、卑俗な面を見せるのは彰之と言う皮肉。早速、男女間の「閉塞」が語られる。一方、榮の政談は国政を語っていた上巻では新鮮味に欠けたが、青森を焦点にした途端、迫真性を増した。原子力発電所と建設業界、原子力船寄港と漁業補償、地方におけるインフラ整備、地方の政治風土と中央政界との関係等の諸問題が生々しく精緻に語られ、作者の筆力を再認識すると共に、舞台を選ぶ眼にも感心した。抽象論に終始した上巻より物語に求心力があると思う。特に"金庫番"英世の造形が巧み。第三章中の「息子たち」は本作の中核とも言うべき榮の回想談で、<リア王>を踏まえて、<王>の危惧は"時代が自分を追い越して行く事"、<娘>の反乱は"資本主義のニヒリズム"と喝破する。余りに時宜を得過ぎた宣託で、現代社会の根本問題に毅然と対峙する作者の孤高の姿は、最早小説家の枠を越えてしまった感がある。榮が<サクラマス>が乱舞する幻想を見るラストも印象的。もう一つの反乱分子秋道の影と合田の登場は次作(未読)への伏線だろうが、三部作がどう収斂するのか楽しみである。

小説としての成否は兎も角、社会を覆う諸問題を「政治・宗教」を切り口として描いた作者の気概と透緻した思索は読む者を圧倒する。ただし、「現代のシェークスピア」ではなく、やはり「現代のドストエフスキー」と感じたが。表紙を飾るレンブラント画「瞑想する哲学者」は、まさに本作の象徴として相応しいと映った。

私の中で高村氏の評価はいつも五つ星である
『新リア王』も何とか読了。政治と宗教をど真ん中から扱ったという点で読後感はシェークスピアというよりドストエフスキーに近い。

感想はなかなかまとまらない。一般的読者は「リビエラ」や「合田」の登場を願うようだが、もはや世界は変質している。本書を読んでいる間は、正法眼蔵でも併読しようかとさえ思ったが、高村氏の主眼が仏教にないことが下巻で明白になったので、それは止めた。ではと、ハイエク的リバタリアニズムとかケインズ主義の基本を少し補強しておこうとも考えたが、それも止めた。高村氏の主眼は、政治を扱いながらも政策の優劣とか対決にはない。2009年8月の衆議院選挙における政権交代を知った我々は、斜めから彼らの政治議論を眺めることになろうか。

宗教や政治の理念と現実、政治の真実、権力闘争、世代交代といったものよりも、この小説の主眼は父子の虚実の対話そのものにこそあり、この対話劇を楽しめない読者には本書はつらいだろうと思う。対話の果てに辿り着くのが、孤独であるというのは、どういう結末であることか。救いはあるのか。

高村氏がこの地平まで来た以上、オウムを扱った『太陽を曳く馬』が提示する世界というのも、おぼろげながら想像がつく。そこにはもはや「会話」さえ成立していないかもしれない。(まだ読んではいないが)
新リア王 下

リュック
posted by なつみ at 22:45| 読書 | 更新情報をチェックする

2010年10月27日

逆説的だが、深い文学性を感じた

太宰 治の津軽

大切な人との再会?民族誌としての『津軽』
『富岳百景』と比べて、どちらかと言えば『富岳百景』の方が好きだ。
私は明るい雰囲気の話が好きだから、結婚を控えて妙にうきうきした感じの伝わってくる『富岳百景』が好きだ。太宰のような陰気な人が妙にハイになっているといじましく感じる。
とはいえ、本作も太宰作品ではどちらかと言えば、陽性の方らしい。
本作は、紀行風土記の体裁をとりながら、その実は人物風土記となっている。
生家と隔絶があり、自然と出身地の津軽にも足が遠のいていた太宰が、原稿執筆という大義名分をテコに重い足をふるさとへ向ける。ところが、ふるさとの人々は彼をわすれずにいたどころか、むしろ大いにその名声を誇りにして、暗く不景気な時代にもかかわらず、大げさなほどに歓待するのだった。
多くの旧友との交情が描かれるなか、クライマックスは著者の乳母であり先生でもあった「たけ」との再開の場面。
私はこの場面が好きだ。日本人はどんなに懐かしく、会いたくて仕方がなかった人と再会した時でも、本来は、抱き合ったり号泣したりはしないものだと思う。
高島俊男氏は、北朝鮮からの帰国者や復員軍人の家族との再会場面などを引いた後で、こう述べている。「わたしなどはむしろ、九死に一生を得て帰ってきた夫を空港に迎えた妻が黙って静かにおじぎする姿や、あるいは、久しぶりに帰ってきた人が子供の頭をちょっとなでるしぐさなどに深い愛情を感じる」
古き良き日本人、とはあまり言いたくないが、そんなエスノグラフィーとしても読めるところに、逆説的だが、深い文学性を感じた。

津軽にて酒三昧
太宰の生まれ故郷は津軽・金木。
昭和13年に、太宰が故郷の津軽半島を、3週間かけて旅した際の紀行的小説。
その内容は、表面的なものではなく、太宰独特の細やかな人情の機微にも富んでいます。
また、太宰自身の考えや内面が、細緻に描かれています。

太宰は無類の酒好きです。
しかし食べ物は、がつがつしているとはしたないから、あまり食べないそうです。
ただし、蟹だけは別だと名言していますが。

蟹田に行くと、蟹をアテ酒三昧。
外ヶ浜へ行くと、かつての友人二人とある寺を拝観する事になりました。
「ちょっと飲みましょう」と友人。
「ここで飲んではまずいでしょう」と太宰。
「それでは、酔わない程度に飲みましょう」と友人。
結果は予想どうりで、和尚の有り難い話を、三人とも全く覚えていないのでした。

こんな具合に、よく酒を飲む旅ですが、全体にユーモアがあります。
それは、事実を誇張せずに語られているだけで、ユーモアと意識せずに書かれているのだと思いますが、
その事実そのものが面白く、思わずニヤッとしてしまいます。

しかし、終盤の乳母たけとの再会は、涙を誘います。
この場面には、本当にハラハラしみじみとさせられます。

こんな具合の、喜怒哀楽に富んだ、非凡な紀行的文学作品です。

明るいそのまんまの太宰に会える
 昨年は、太宰治生誕100年だったこともあり、たくさんの太宰作品を読んだ。その中で、「ああ、太宰という人は、本来こういう人だったんだなあ。」と、ようやく生身の太宰に会えたように感じたのが、この作品である。彼は、故郷津軽の人たちとこのように語り、このように酒を飲んだ。そして、大好きだった育ての親と再会する。太平洋戦争真っ直中の昭和19年の春、彼は都会の生活を逃れ、故郷津軽を旅する。この作品では、友と語るリラックスした明るい太宰に会える。また、一方で、実家に対する彼のコンプレックス、気詰まりも理解できる。長部氏による作品「津軽」の裏話(解説)、太宰本人の手による津軽半島の地図など、この文庫ならではの特徴も見逃せない。
津軽

タグ:太宰 治 津軽
posted by なつみ at 22:58| 日記 | 更新情報をチェックする
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