2010年11月01日

創作者の側からの挑発

多和田 葉子のエクソフォニー

言語宇宙のかなたへ
 多くの読者は、この本を読んで多和田葉子の豊かな言語感覚に嫉妬せざるをえないだろう。彼女は常人では届かぬ言語宇宙のかなたに行ってしまっている。そして、読者に言語の持つ新たな可能性を手際よくみせてくれる。ほとんどの言語学者は言語を死物のように扱いただ分析するだけなのだが、彼らの書く愚にもつかぬ本をいくら集めてもこの『エクソフォニ−』には及ばない。多和田葉子という希有な水先案内人とともに言語宇宙を旅しようではないか。

生活の中で外国語を使っている読者には頷けることが多い一冊
 第一部は書き下ろしで、幼少時代に使って身につけた母語とそれ以外の外国語で思索・創作するということについて思いをめぐらせた小論を20編あつめています。 第二部はNHK「テレビ ドイツ語会話」のテキストの連作エッセイを加筆修正したもので、ドイツ語の興味深い単語や表現について著者独自の視点から切り込んでいます。  第一部は、起承転結が明確ながっちりした小論文というよりは、自由気ままに思いつくまま筆を書きすすめたという緩やかさを伴った文が続きます。話題も変幻自在といった感じに転じていくので、えてして「で、そもそも何を論じようとしているの?」という思いも抱かないではありませんが、「自分の言葉」と「他人の言葉」の両方の間を往来しながら生きている著者ならではの「自在さ」があらわれているという風にも取れなくもないなと感じた次第です。  第二部はドイツ語を外から眺めて初めて見えてくる、ドイツ人自身も気づかない「隠れた個性」に目を向けさせてくれるなかなか面白い文章が並んでいます。私はドイツ語と出逢って四半世紀が経過していますが、それでもなるほどと思わせてくれる話が載っていて楽しめました。  しかしもともとが「会話番組のテキストの購入者」という限られた読者を対象にしている文章なので、おそらくドイツ語に多少なりとも知識がないと楽しむことは出来ないと思います。

創作者の側からの挑発
このエッセイ集は、一言でいうと、クレオール文学、越境者の文学、移民文学、外国人文学など、創作者本人ではない他人からの定義を冠されてきた多和田をはじめとする母語ではない言語で創作を行う作家を、新しい視点、つまり、「母語の外に出て書く=エクソフォニー」という創作する行為から見て定義しよう(あるいは定義から解放されよう)というものである。彼らが母語ではない言語の選択にいたる原因だけではなく、結果として広がる豊かな現実、あるいは危険と隣り合わせである緊張感にあふれた創作行為そのものに目を向けようとしている点で、こういった主題を扱っている他の本に対する一種の挑発とも思える。かかれている内容としては、彼女が旅先で経験したことを都市の名前を冠した章ごとに語!るというものであるが、端々に垣間見えるのは、ただエクソフォニーを礼賛するだけではなく、二言語で書きたいことが書けるという一種の特権性に対する謙虚さや、ドイツの作家がなぜドイツ語創作にこだわるのか、という事情への考察、そして、日本が他国に押し付けたエクソフォニーに対する目配りもあり、創作者ならではの視点と反省とである。「旅することと住むこととはわたしの中ではもはや相対的なもの」と語る作者の、危うくも快感をもたらす綱渡りのような、身を張った創作行為の舞台裏を見ることが出来る。
エクソフォニー-母語の外へ出る旅-

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ラベル:多和田 葉子
posted by なつみ at 20:03| 読書 | 更新情報をチェックする
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