2010年10月29日

読み手に対する要求が高い

純粋な小説
なんのあてもなくパリに放り出されたわたしは、行き当たりばったりに知りあった人の家で居候生活を始めた。 身分を証明するものを持たない、それも共産圏からの密入国者であるわたしに何ができるだろう。
ふらふらと吸い込まれるように映画館に入ったわたしは、ひとりの女優に惹かれて、彼女を見るために、彼女に話しかけるために、映画館に通い詰めるようになった。

社会主義しかしらないベトナム人の少女は、フランス語がわからないからパンフレットも読むことができない。 作品を何度も何度も繰りかえし観て、オリジナルな解釈をつけてゆきます。 
少女が惹きつけられた女優はカトリーヌ・ドヌーブ。

小説には少女が見ている作品のタイトルが書かれていません。
実は・・・わたしはカトリーヌ・ドヌーブの映画をたくさんは見ていないので、少女がどの作品を観ているのか、私たちが知っているストーリーとどれだけかけ離れた解釈なのか、いまひとつわからないまま読んでいましたが、なかなか興味深かった。
12年間に及ぶ、パリでの実生活も ものすごく怪しげで、目が離せない。
こんなに長くパリに住んでいたのに彼女はフランス語をマスターできなかったのです。

この本は、読んだことによって自分に何かが蓄積される、そういうことはまったくない小説でした。 ある意味では純粋な小説とも言えます。
読んでいる時間、小説に没頭してるときがすべて。
芸術性の高い作品だと思いました。

映像と意味
日本で海外の映画を見慣れていると字幕が当然になってしまいますが、映像のなかの文字に注意を集中させられるというのは、かなりもったいないことです。ということが、この小説でよくわかります。

ベトナムの女子高生がヨーロッパ(特にパリ)をさまよい、孤独のなかで成長していく話。ストーリーもおもしろいですが、フランス語がまったくわからない主人公の独特の映画解釈がたまりません。セリフの意味が分からないから、画面からかなり勝手に意味を作り上げていく。いくとおりも考えられる映画の意味の世界の豊かさが、孤独な現実と重なっていく手法が見事です。

言葉=たった一つの意味。映画=いくつもの意味。この小説を読むと、字幕をみるのはやめようと思えるはずです。

読み手に対する要求が高い小説です
 共産国ベトナムから東ベルリンへ一人の少女がやってくる。ドイツ全国青年大会でアメリカ帝国主義を糾弾する演説を求められてのことだ。だが彼女は大会直前、運命のいたずらから西ドイツのボーフムへ渡ってしまう。その後パリへ流れ着いた彼女は、あの女優の出演作を見ることができる映画館を唯一の慰めの場として、二十世紀末を生きていく。ベルリンの壁が崩れ、祖国ではドイモイが進んでいることも、どこか他人事のように感じながら…。 言葉が十分には理解できないまま国境を越え、アジアの少女はヨーロッパの中で孤独を抱えて長年月を過ごします。読者は少女とともに「帰属感の喪失」を味わいながら、この小説の中で絶望的な彷徨を繰り返すことになるはずです。私はそのもどかしげな寂寥感を主人公とともに堪能しました。 とはいうものの、この小説は読者を選びます。というのも、これは主人公が作中では「あなた」と呼ぶだけの女優の出演作13編を作者なりに一度解体した上、この少女の数奇な運命と映画の内容とを重ね合わせ、<二重らせん構造>に組み直したものなのです。 各映画の筋書きは断片的に語られるだけで、映画解説風の詳細な描写ではありません。映画を未見の読者にはそれぞれの粗筋を十分には理解できないかもしれません。 特に最終章は映画との連関が一切説明されません。「セルマはアメリカに亡命してそこで死刑の宣告を受ける前に、ベルリンで三年間、暮らしたことがあった」という書き出しに頷くことができるのは、ビヨークがセルマを演じた「Dancer In The Dark」を見たことがある読者だけです。 セルマは異郷に生きるための慰めをミュージカルに見出していました。セルマと少女は鏡の関係にあるのです。 こうしたことを読み解けない読者をこの小説は最初から受け入れてくれません。読者に対するハードルの高い作品だといえます。
旅をする裸の眼
カットソー


ラベル:多和田 葉子
posted by なつみ at 19:55| 読書 | 更新情報をチェックする
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