2010年10月28日

感想はなかなかまとまらない

昭和の政治家の一神話
架空の政治家の姿を借りて、実際の昭和の政治家の在り様をその一身にまとわされた
福澤一族の王たる榮という主人公。

その孤高の最終決断は、シェイクスピア劇の畳み掛けるラストの如く圧巻で、痛快。

作者は、男性だったら、斯様な人生の幕引きをしてみたかっただろうか。
きっと書き上げてさぞかし小気味良かったことだろうと、想像。

榮が唯一愛した晴子以外の女連の描かれ様には、女の嫌な面のオンパレードだったわけだが、
この榮の最終措置に、わたしも溜飲を下げた。

小説家の枠を越え「政治・宗教」と対峙した気概溢れる圧倒的な作品
上巻の第一章は、口頭での榮の政談、彰之の宗教談義だけで哲学書風に構成すると言う破天荒な出だし。第二章で、ようやく<王>と一族の考察に入り、題名に沿って来た。作者に依れば<王>を創り出す要諦は「能動」だと言う。ならば崩壊の予兆は「閉塞」か ?

下巻も榮と彰之の宗教談義から始まる。政治家とは思えぬ高邁な精神と仏教知識を持つ榮。二人の会話は相変わらず抽象的な哲学論だが、卑俗な面を見せるのは彰之と言う皮肉。早速、男女間の「閉塞」が語られる。一方、榮の政談は国政を語っていた上巻では新鮮味に欠けたが、青森を焦点にした途端、迫真性を増した。原子力発電所と建設業界、原子力船寄港と漁業補償、地方におけるインフラ整備、地方の政治風土と中央政界との関係等の諸問題が生々しく精緻に語られ、作者の筆力を再認識すると共に、舞台を選ぶ眼にも感心した。抽象論に終始した上巻より物語に求心力があると思う。特に"金庫番"英世の造形が巧み。第三章中の「息子たち」は本作の中核とも言うべき榮の回想談で、<リア王>を踏まえて、<王>の危惧は"時代が自分を追い越して行く事"、<娘>の反乱は"資本主義のニヒリズム"と喝破する。余りに時宜を得過ぎた宣託で、現代社会の根本問題に毅然と対峙する作者の孤高の姿は、最早小説家の枠を越えてしまった感がある。榮が<サクラマス>が乱舞する幻想を見るラストも印象的。もう一つの反乱分子秋道の影と合田の登場は次作(未読)への伏線だろうが、三部作がどう収斂するのか楽しみである。

小説としての成否は兎も角、社会を覆う諸問題を「政治・宗教」を切り口として描いた作者の気概と透緻した思索は読む者を圧倒する。ただし、「現代のシェークスピア」ではなく、やはり「現代のドストエフスキー」と感じたが。表紙を飾るレンブラント画「瞑想する哲学者」は、まさに本作の象徴として相応しいと映った。

私の中で高村氏の評価はいつも五つ星である
『新リア王』も何とか読了。政治と宗教をど真ん中から扱ったという点で読後感はシェークスピアというよりドストエフスキーに近い。

感想はなかなかまとまらない。一般的読者は「リビエラ」や「合田」の登場を願うようだが、もはや世界は変質している。本書を読んでいる間は、正法眼蔵でも併読しようかとさえ思ったが、高村氏の主眼が仏教にないことが下巻で明白になったので、それは止めた。ではと、ハイエク的リバタリアニズムとかケインズ主義の基本を少し補強しておこうとも考えたが、それも止めた。高村氏の主眼は、政治を扱いながらも政策の優劣とか対決にはない。2009年8月の衆議院選挙における政権交代を知った我々は、斜めから彼らの政治議論を眺めることになろうか。

宗教や政治の理念と現実、政治の真実、権力闘争、世代交代といったものよりも、この小説の主眼は父子の虚実の対話そのものにこそあり、この対話劇を楽しめない読者には本書はつらいだろうと思う。対話の果てに辿り着くのが、孤独であるというのは、どういう結末であることか。救いはあるのか。

高村氏がこの地平まで来た以上、オウムを扱った『太陽を曳く馬』が提示する世界というのも、おぼろげながら想像がつく。そこにはもはや「会話」さえ成立していないかもしれない。(まだ読んではいないが)
新リア王 下

リュック


posted by なつみ at 22:45| 読書 | 更新情報をチェックする
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